理解
普通とは尊いものだ。
いきなり踏み込んだ話になる。
わたしは発達障害の診断が下っている部類の人間だ。
いわゆるアスペルガー症候群、今では自閉症スペクトラム障害という名前が付く。
苦労のマウンティングほど不毛なものもないが、
保健室登校や、退学等もやった手合いだ。
わたしは発達障害が個性である、という言い方を好まない。
もちろんこれがもたらす影響は表裏一体だ。
やりようによっては良い面もある。
それのことを個性と評するのは良い。
だが、発達障害というもの全体を個性と言われては困る。
それによって不都合や苦痛が生じるからこそ障害なのだ。
その物言いは、時に当人の傷に触れることになる。
支援への妨げになる場合があるのだ。
個性なんだし、みんなと一緒でもどうにかなるよ、と言われて
通常の状況に置かれるよりは、これは障害である、と
特別扱いされたほうが少なくともわたしにとっては
万倍ましである。
だからといって全体のルールをそちらに寄せろといっているわけではない。
大きな枠組みではカバーしきれない零れ落ちたものが障害であり、
社会において基準となり、優先されるべきはその人々である。
ただ、入れなかった人たちを受け止め、救い上げる機構は、間違いなく必要だ。
その仕組みにおいてスタートラインを揃えるのは必要なことだろう。
生きてきて、当たり前にできるようになりたい、
普通になりたいと何度思ったかわからない。
最近やっと違うことと向き合えた。
みんな向き合わなくてはいけないなんて露ほども思わない。
ただ、どんな人が、どんな相手がいたとしても、
それは自分ではない、ということを忘れてはいけない。
ひととひとが真の相互理解を得ることはないだろう。
実現されたときひとは個を喪うと思う。
わかりあえないまま、きっとわたしは生きてゆく。
わたしとして生きてゆくのだ。