眠るなら。

考えたり。

書く読む

いわゆる詩の活動、というもの、それも道具を必要としない活動は、大きく二つの活動に分かれる。それは「テキスト」と「リーディング」だ。

まずテキスト。これはまあ単純に紙面、または画面にて文字の状態で作品を発表するものをいう。もうひとつ。リーディングは、簡単に言えば声を用いて詩を表現することを言う。これ、とてもざっくりとした分類で、後者の中にも様々な活動様式や、読まれるためのテキストの方向性、そして派閥などが存在する。だがわたしはたまにやったりはするものの、リーディングのほうにどっぷり浸かっているわけでもないし、詳しくもないので、こんな状態で下手なことを言ってしまったらどんなお叱りの言葉が飛んでくるかわからないからこの辺で派閥の話はやめておく。

テキストもリーディングも表現であることには変わらないが、どこが違うのか。まず音を伴うということ。これは当たり前ではあるが、大事なポイントだ。そしてそれに関連するもう一つ。その音は何処から発されているか?肉体である。

そう、つまりリーディングはテキストに肉体性を付与することができるのである。ゲームで言えばエンチャントだ。あえてバフデバフでは表現していない。というのも、これは両方の面に作用するからである。

まずバフ。要するに良い方向に上乗せされる要素についてだが、テキストだけではストレートに伝わらないニュアンスを強めて表現することができる。詩というもののデフォルメをすることができるのだ。または内容に必ずしも追従しない表現技法を用いて読むことによって、新たな解釈を強制的に受け取り手に叩き込むことさえもできる。リーディングというものは、自由度を飛躍的に上げるのである。

しかしてそれがプラスに働かないこともある。要するにデバフだが、自由度が下がるということは、純度が下がるということである。言葉の純度とは、なんとも言い表しづらい概念であるが、日本刀のような刃物に例えればいいだろうか。鋭く研がれた刀はよく切れる。これを磨かれた言葉を用いたテキストのこととすると、リーディングはさながら鈍器のようなものなのである。すばらしいリーディングにはパワーがある。そしてすばらしいテキストは、触れれば切れる刃のようなたたずまいをしている。これはいい悪いではなく、方向性とかそういう問題なのだ。

正直な話をすれば、リーディング向きでないテキスト、というものは、存在するとは思う。声に出すことが不可能にさえ思える詩というものも存在していることであるし。しかし読む、という行為は世界へと発される行為であるし、それはまたその行為によって詩が生まれるということもあるのである。

私の作品は、リーディングのために書かれた詩ではない。けれども確実に声に出されることを想定してはいる。それは私が詩吟というバックボーンを持つからであるし、意識のしないうちに常にやっている習慣のようなものであるからだ。なにもすべての詩を書く人にそんなこと強制する気もないのだが、価値がないとも、思わない。

結局は私は書くしかないのであるし、それが詩人と名乗ると決めた業なのである。