眠るなら。

考えたり。

随分と時間がたってしまったけれども、この間に、私は祖父を二人とも亡くしてしまった。ひとりは病院で枯れるように息を引き取り、もうひとりはいきなり倒れてあの世へと旅立ってしまった。

もともと牛という大動物の死ぬ瞬間を何回も見てきたから、戻ってこられなくなる瞬間、というものには慣れていたつもりだったのだけれども、やはり同種の人間が、それも近しい人が息絶える、というのは何処か特別な心持ちを覚えるのだろう。

私が今死んだところで、世界の総量は何一つ変化しない。この星に命絶えても、さみしさを感じることもない。

けれども、すべての現象は、無限の停止した永遠の上に立っている。土は死の結晶だ。燃え盛る光を浴び、黒い土の上に立ち、わたしたちは呼吸をしている。生きることは捨てることだ。新陳代謝は、繰り返される死だ。静止した命には温度がない。そして温度差に従って、世界は循環する。

総量は常に一定であるのだからわたしたちは更新される繰り返しの一瞬にある。それは人である、ということではなく、世界である、ということだ。だから必ずしも人が栄えればよいとも思わない。穏やかで、幸せな眠りにつければよいのかもしれない。

それでも生命体というものの第一目的は生きることだ、ただ生きることだ。それを蔑ろにした先に、生きるものとしての幸福もない。人である限り、体と精神が分かたれて存在してしまう限り、ジレンマが存在する。その合一の先に、世界があるのであり、詩がある。そうしてうまれた詩は、外界へと、開かれている。けれどジレンマの中にも、確実に詩は存在する。擦れあう精神と肉体の、その火花である言葉は、限りない深淵を覗くレンズになる。

わたしは以前、「詩人」と名乗っていなかった。詩人という言葉は、わたしには重すぎるように思えたからだ。けれどわたしにはその重みが必要だった。詩を書くから詩人なのではなかった。自らを詩として生きねばならない業を持つから詩人なのだ、と思い至った時、自らをすんなりと、「詩人」、と名乗ることができた。これは親しい友人に「詩人ってなんで名乗らないの?」と問われたことがきっかけだった。そして、今は亡きとある詩人の方に「あなたは詩人だよ」といっていただけたことが決め手だった。そしてあの方が亡くなったことをきっかけに、詩を書くのではなく、自らを詩として、詩そのものとなって生きてゆくことへの覚悟を決めることができた。

人は死ぬとき、ただ無になるのではなく、言葉を通じて自分の視界を遺してゆくことができる。そしてそれを成しえる人を、芸術家、と呼ぶのかもしれない。