理解
声高らかに人を呪う人を見た。
そこには多くの賛同者がいて、
ああ、ひとは解りあえないのだと痛々しく思うほどに感じた。
煮えたぎる憎しみが、怒りがこんなにも容易く言葉にできるなんて思わなかった。
生まれてから大体二十年だ。
けれどわたしは未だに自分の感情を理解できていない。
負の感情にも、正の感情にも名前がついていなくて、
それが齎す体感があるだけだ。
幼いころは自分の思考を塗りつぶす感情が怖くて、
パニック発作を起こしたりしていた。
ようするにこれは私の特性なのかもしれないが、
思考と感情は離れているものだったのである。
別物というわけではなく、材料のようなものだったのだ。
だからこそ、あの呪いが怖かった。
あの感情は、あの思考は、あの行動は、同一だった。
論理と感情は両軸だ。そして思考と行動は別の次元にある。
わたしはそうやってできている。
けれどまったくもって逆だった。
理解はできたが心の底から共感はできなかった。
ああ、これが、これこそが怒れる人だ。
わかりあえないはずだ。こんなにも違うのだから。
わたしにとって負の感情は恐怖しかなかった。
怒りも憎しみも憤りもなかった。
ただこわいという気持ちを体が発露するだけだった。
わたしは弱い。そう感じた。
叫びがないからだ。そして叫びを持たないからだ。
訓練とか論理とかではない。そういうつくりではないのだ。
いままでのわたしが漠然と認識していた断絶。なんとなく理屈をつけていた溝。
その姿を見た気がした。
そしてその気持ちがみんなにはわかるのが何よりこわかったのだ。
普段わたしはある程度感情のロールプレイをしている。
普通になるためのロールプレイだ。
でもきっとわたしはその人たちがわからないだろう。
そのことがほんのすこし、さみしいと言える。
わたしは人を呪えない。感情のままにいられない。
そこからどこにも行けないし、それしかない。
けれど、ほんのすこし憧れているのかもしれない。