眠るなら。

考えたり。

確定

いろいろあって薬を飲んでいる。

 いわゆる向精神薬、というやつである。

こいつのおかげで社会生活を何とか送れているようなものなのだけれど、時々こんな考えにぶち当たる。

本当のわたしって何だ?

一見まともに見える(ように心がけている)薬を飲んだ自分と、薬のないどう見てもまともではない自分。そりゃまともに見えるほうがいいに決まっている。

「なんで生きているんですか?」なんていう終わらない問いかけや体をかきむしったり果てにはカッターナイフで腕を切りつけだす(浅いものではあるが)衝動やら意味も分からず湧き上がってくる不安感なんぞないほうがいいのだ。

それでも。ありかを見失ってしまったかのようなぞわぞわとした心地は私の肌から離れない。

不思議なもので、薬がなかったら絶不調だな、というのはわかるものだ。

表すなら孵化寸前の卵を手に乗せているようなもの、中で何かしらが蠢いていることを感じている。

わたしは情動と思考を切り分けてしまっているからこんな言い方になるが、思考は表面を覆う薄い殻のようなもので、情動は言うなればマントルのようなものだ。普段はおとなしくぐるぐると対流しているものだけれど、時折マグマとして吹き上がる。まともではない、薬を飲んでいないわたしは世紀の大噴火祭りだったともいえるかもしれない。

こんなことを繰り返していた(十年選手である)わたしの殻はぼろぼろになっていたのだけれど、薬が継ぎをあてて強化コーティングをしているおかげで何とかもっている。

その代償、というには小さいが、通常有るべき感情の発露もすこし薄まってしまっているきらいはある。しかしまあこのくらいは目をつぶればいい。

自然な状態、といえば本当はこのどう考えてもおかしいわたしなのだ。

ひどい噴火がくる前には比較的よくしゃべり、天真爛漫(狙ってはいたが)風にふるまえてもいた。返して今では冷静なおっとりさん(当社比)である。

主治医にはそれは過剰適応だよ、と言われてはいるが、今思い起こせば幼少期のわたしはまさしく天真爛漫元気印(空気は読めない読書家)だったので、正しく健やかに成長すればこっちになったのでは?という疑念がふるえないのだ。

さっきもちらりと述べたがわたしの症状はその程度に差はあれど十年選手である。今私は二十歳。現在の薬を飲み始めてから日は浅いものの人生の半分、それ以上これとお付き合いしてきたわけだ。

そう、思春期もである。自分に精一杯すぎて反抗期さえ来なかったのだ。(自分に反抗してたのでは?とはいわれつつ)そんな状態で正しくアイデンティティの発露ができたのか?その真相は闇の中なのだが。

そう、問題は「健全な場合の自分の人格がさっぱりわからない」ということなのである。今のような冷静おっとりさん(当社比)ならそれはそれでいい。しかしそうではなかった場合自分の人格もよくわかってない状態で生きていく羽目になるのだ。乖離傾向と過剰適応傾向まであるのでもはやぐちゃぐちゃである。

幸い(?)今飲んでいる薬とは基本的に一生おつきあい系なので当分冷静おっとりさん(当社比)で生きていくことになるのだが、薬を飲んでいる限りこの思いともお付き合いしていくことになるだろう。

まあ、いきていければいいのだが。幻聴のようなものとお付き合いをさせていたただいているわたしとしては、生きていく理由なんて生きているからでいいのだ。