眠るなら。

考えたり。

理性

あまりに久しぶりの投稿だ。

 

Radioじらいげんというものが始まり、なかなかに忙しかった。

そうやってほっておいたらもう十二月も半ばを過ぎ、年末となってしまった。

 

ふと狂気について考えたりすることがある。

この言葉は随分と間口が広い。確固たる概念がないからだ。

そして対義語として使われることが多いのは、理性という言葉だ。

理性とはなんぞや。わたしはそれを「本能を覆うもの」と呼んでいる。

本能は思考を伴わないか? 否、思考とは生存、即ち本能に順ずるものだ。

次を見出すための手段として思考は存在し、

そしてそれは程度に差あれど人に限らない。

 

再三再四書いているが人は動物だ。

しかし理性は人が獲得した本能を逸脱した領域である。

わたしは狂気を「生存ただそのため以外にあるもの」と定義する。

それすなわち種単位の利他性、そして余所見である。

コミュニケーションの領域は本能に属すると認識しているため理性からは除外する。

そして理性とは最大の狂気であると考える。

ヒトという動物が生きるだけなら理性など必要ない。

しかしただ生存のみという方向性を逸脱すること、

狂気を獲得することによってわたしたちは文明を得た。

人間とは狂気によって自らを確立させた動物であるのだ。

 

これはわたしの考える、方向性を持たない広義の解釈だ。

人が人を歓喜のままに傷つけること、

当たり前だがこれも狂気である。

最初にも述べた通りこの言葉は大変に間口が広いのだ。

しかし狂気の本質は逸脱だ。

 

いつもわたしはわたしを眺めている。

情動のわたし、思考のわたし、行動のわたし、俯瞰のわたし。

狂気は階層となって人格を編んでいる。